京都の造園小史

 日本庭園の歴史は京都の庭園の歴史でもあるが、記録に残る最も古いものは飛鳥地方につくられた須弥山像と呉僑のある宮殿南庭で推古天皇2l年(西暦612年)のことである。その後、蘇我馬子邸や島の宮庭園等がつくられ、平城京に都が移された後には海浜風景を模した庭園がつくられていた。
 延暦13年(794年)桓武天皇によって平安京遷都がなされたのであるが、この地は付近の山々から作庭材料となる美しい樹木や岩石、砂などが手に入れやすい上、旧河川敷から涌水等庭園に欠かすことのできない水が容易に得られることなど、作庭条件に実に恵まれた環境であった。そのため皇族をはじめ貴族達はあらそって庭園をつくり、今日でも、神泉苑や嵯峨院・河原院の庭園は往時の面影を残している。その後貴族達の住宅に寝殿造りという建築様式が普及してくると、庭園もこの建築様式に調和したもの、すなわち寝殿造庭園に形式化され数多くつくられたのであるが、今日完全な姿は残されていない。しかし、日本最古の造園図書“作庭記”によりその詳細はよく知られており、京都の地理的条件を巧みに取り入れ、過し難い気象条件を緩和する工夫を目のあたりに知ることが出来る。平安時代中期より浄土思想が普及して来ると、これが庭園にも影響を与え、浄土式庭園が育まれる。宇治平等院庭園がこの例である。
 
神泉苑(平安初期作庭)
 
平等院(平安後期作庭)
 源平の合戦を経て政権は武士の手に渡り、政治の中心は鎌倉に移る。しかし京都には衰えたとはいえ依然として貴族が駐まり、庭園がつくられていたのであるが、この頃より作庭の専門家として石立僧が現れて来る。禅僧政僧としても有名な夢窓疎石は、南北朝時代に活躍した石立憎で西芳寺や天竜寺の庭園など数多くの作品を残している。 足利尊氏が政権を獲得すると再び京都が政治の中心となり、最も力のあった三代将軍義満は西園寺家の別荘北山第に山荘を営み出家するやこの山荘に舎利殿金閣を建築、これを中心とした庭園をつくったが、のち鹿苑寺、舎利殿にちなんで金閣寺ともいわれるようになった。八代将軍義政の時代になるともう足利幕府は昔日の面影を失うが、彼は応仁の大乱から逃れて芸術活動に生き甲斐を見い出しその拠点として山荘東山殿を造営する。これが後の慈照寺であり、西の金閣寺に対して銀閣寺と称される。
 室町時代で忘れてならないのは禅宗の影響を強く受けた寺院の庭園である。この特徴は仏を表現した立石とこれを中心とした抽象的な石庭にあり、枯山水といわれるものである。大徳寺大仙院の庭園は有名であるが、特に竜安寺の石庭は今日でも世界に誇る最高傑作の芸術作品である。
  
天竜寺庭園
(貞和6年1345年:夢窓国師入山)
 
竜安寺枯山水
(長享2年1488年:細川政元作庭)
 応仁の乱に端を発し世は戦国時代に突入、都は作庭どころではなくなるのであるが、秀吉により戦乱が治ると共に彼の個性そのままに豪華絢燗たる庭園がつくられる。その代表的なものが醍醐三宝院の庭園である。しかしこのような派手な庭園に対し、秀吉に仕えた茶人千利休はわびさびという彼の茶道の理念にもとずく質素な茶庭をつくり出したのである。
 
醍醐三宝院庭園
(慶長3年1598年:豊臣秀吉改修)
 
表千家不審庵露地
(慶長15年1700年:千少庵再興)
 その後政権は徳川家康の手に移り、江戸時代が開幕する。江戸時代は文字通り江戸が政治の中心となるのであるが、京都はいわゆる上方文化の中心として文化的に栄えるのである。庭園も将軍家の京都の在所としての華麗な二条城にふさわしい二ノ丸庭園をはじめ、日本庭園の代表である桂離宮庭園、修学院離宮庭園、仙洞御所庭園などがつくられ、これが諸大名をして各地に大名庭をつくらせる規範となるのである。一方室町時代より徐々に力をつけて来た町人は、江戸時代に至り経済的に大いに充実し文化芸術振興の中心になるのであるが、庭園においても町家の庭として大いに発展する。今日、京の庭といわれているものは数寄屋の庭とも称し、この町家の庭を受け継いでいるのであり、これは草庵式茶庭を基礎にした小規模な一見質素に見えるが、その実非常に吟味された材料を用い、高度に洗練された技術でもって作庭されるものである。しかし、時代が下り江戸末期ともなると、庭園は規格化され形式化されて、次第に活力を失い芸術性に乏しく平凡なものとなってしまう。
 
桂離宮庭園
(寛永2年1625年:智仁親王作庭)
 
仙洞御所庭園
(寛永5年1628年:幕府後水尾上皇のため造営)
 明治維新は我が国に政治的社会的な大変化をもたらしたのであるが、庭園についても同様で、今までの形式化されたものが、作庭者あるいは施主の自由な意志にもとずいた庭園に改革されて行くのである。この代表が植治小川治兵衛による作品で、無鄰庵をはじめ明治28年創建の平安神宮神苑や南禅寺界隈の実業家達の庭園にこのことがよく現れている。
 
無隣庵庭園
(明治28年1895年:山県有朋公、小川治兵衛氏に作庭を命ず)
 
平安神宮神苑
(明治28年1895年:開園、小川治兵衛氏作庭)
 明治6年(1873年)政府は太政官布達として各県知事に公園候補地を推挙するようにとの命令を下すのであるが、これが我が国公園行政の第1歩である。ただし、これにもとずき指定された各地の公園は、江戸時代又はそれ以前から一般庶民遊楽の地として、すでに公園的な目的で利用されていた地域がほとんどである。枝垂桜で有名な京都円山公園も、江戸時代より市民に利用されていたのであるが、明治19年(l886年)この布達にもとずいて公園になったものである。
 明治21年東京市区改正条例が公布されたのであるが、これは首都東京市に近代的な都市計画を策定し、欧米先進国の大都市のような町に改造するためのもので、京都市には直接関係がないにしても、都市公園を都市計画施設の一つとして認めたもので、造園の歴史上きわめて意義深いものである。さらにまた明治36年、東京市では日比谷公園が開園されているが、これも我が国の近代的な都市公園の始まりとして造園の歴史上銘記されるものである。京都では同年4月大正天皇御成婚記念として岡崎に京都市記念動物園が開園、37年8月には同じく岡崎の第4回内国勧業博覧会跡地に岡崎公園が開園、翌38年には京都市で始めて児童公園として五条大橋西詰に五条児童公園が開園、さらに39年3月には京都府が嵐山公園を開設するなど、日露戦争(明治37年〜38年)の前後にも拘らず公園が次々につくられたのである。
 
京都市初の児童公園「五条児童公園」
(明治38年1905年:開園)
 
開園当時の京都府嵐山公園「渡月橋」
(明治39年1906年:開園)
 ところが、大正に入り先程述べた東京市区改正条例の全国版である都市計画法が制定されて(同8年)都市公園設置の法的根拠が明確になるのであるが、都市公園の建設は世間の不景気と相俟って遅々として進まず、首都東京においてすら大正12年(1923年)の関東大震災が契機となってようやく本格的な緒についたのである。京都ではさらに遅れること約10年、昭和7年から15年にかけて京都市西京極運動公園、船岡山公園や二条児童公園・橘児童公園など各区に児童公園がつくり出された。ところが、昭和16年(1941年)太平洋戦争開戦より昭和20年(1945年)の終戦をはさみ昭和30年前半(1960年頃)までは、とても公園行政にまで手が廻らず欧米先進諸国とはこの分野でも大きく水をあけられたのであった。ところが昭和30年代の後半から徐々に公園建設も進められ、関東地方では昭和39年(l964年)の東京オリンピック、関西では昭和45年(1970年)の万国博覧会を一つの契機としての大飛躍が見られ、昭和47年(1972牛)都市公園等整備緊急措置法にもとずく第1次都市公園等整備5カ年計画に始まり、現在の第4次計画でさらに欧米の諸都市の水準にまで追い付く努力がなされている。
 
大徳寺所有地をかりて開設した「船岡山公園」
(昭和10年1935年:開園)
 
旧幕府の獄舎跡で昭和御大典記念博覧会跡の「二条指導公園」(昭和9年1934年:開設)
 一方造園のもう一つの大きな分野である庭園であるが、江戸時代諸大名がつくっていた大規模な大名庭は、明治以後、国、又は地方公共団体が建設するところとなり、明治神宮内苑をはじめ最近の万博記念公園など全国各地に大回遊式庭園がつくられ、京都でも古くは平安神宮神苑や最近では二条城清流園がこの例であり、今後共公共造園の大きな分野として益々増設される傾向にある。これに対して、小規模な庭園すなわち住宅庭園は、前述のように江戸時代の町家の庭から若干の消長を経ながら連綿として今日まで続き、造園業界の最も大きな営業範囲となっているのである。しかし、内容的にはかなり変化しており、観賞本位であった江戸時代から実用を加味した庭、あるいは西洋庭園の要素や建築的な様式その他多種多彩な庭園になっており、施主にしても一部の富裕階級の人達から最近では一般庶民の高所得化に伴い誰でもがつくる、もしくは、つくりたいという大衆化傾向が顕著である。
 
万博記念公園(昭和45年1970年:完成)
 
二条城清流園(昭和40年1965年:完成)
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