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天文18年1949年、ポルトガルのフランシスコ・ザビエルが、天主教(キリスト教の旧教、カトリック教)をわが国に伝え、燎源の火の勢いで全国に広がったが、豊臣秀吉が天下を統一した1587年に、晴天の霹靂の如く、切支丹の禁止令と宣教師の追放令を出した。 1593年には、豊後の21の礼拝堂と宣教師の住居6戸を破壊、翌1594年には、長崎で天主教徒を処刑した。信徒達は次第にイエス・キリスト、マリア、十字架を、正面きって礼拝することが困難になってきた。 天主教の信奉者の黒田如水・小西行長・高山右近・日比野了慶・織部重勝・コエリヨ神父・ワリヤー神父達は密談を重ね、秀吉の性格からして、切支丹禁止の緩和と撤回は容易ならぬことを悟り、今後の伝道と信仰について、度々会合を重ねたであろう。 その結果、イエス・キリスト、マリア、十字架に代わる日本的な仮託礼拝物を考案し、信徒の心のよりどころを追求し、熟慮に熟慮を重ね、日本古来の燈籠によせることに気付いた。どの様に礼拝意図を宿すか、日本的芸術と泰西の宗教的民衆美術をいかに取り入れるか、苦心を重ねた。 まず、信徒の中心的信仰の十字架は、燈籠の竿に十字架を生かし、 ![]() ![]() ![]() 竿の上部の○丸部に描かれる ![]() 昭和初期、日本人はもとより欧米の諸学者がこの文様を検討したが、誰も解決できなかった。ここに紹介するのは、十数年間にわたり日本全土の拓本を取り、拓本資料と写真によって究明し続けた松田重雄氏の考察である。 「 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 長らく世界の謎となっていた仮託礼拝対象物文様の原点 ![]() ![]() 燈籠の下部に彫られている八頭身の尊像については、当時の信徒がイエス・キリストのイメージをも求めていた、世界の人像の美は、ギリシャ文化によって形成された八頭身が、最高の美であることを当時の神父が解き、八頭身を基礎として、神父のガウン姿とし、祈りの組手をほどこし、日本人が見た神父の足が外ワニ姿であることが取り入れた。 このように、「天の父(神)」と「子(イエス・キリスト)」が考案されたが、三位一体の「聖霊」を如何に表現するか、黒田・高山・小西・蒲生・織部その他の信奉者達は、日本的な象徴を入れたいものと研究し、聖霊は自然万物の現象を基礎としたさとし(訓)であることから、聖書を繙き「ペテロは岩なる信仰を持っている。私はペテロの様な堅い岩なる信仰の上に、教会を建て教えを広めたい。」にヒントを得て、紆余曲折・試行錯誤しながら、思索を重ねた結果、「岩松无心 風来吟 錦上鋪花 又一重」の聖霊を表現した詩句に到達し、その詩句を燈籠の竿の側面に彫った。 このように、信仰の英知によって三位一体を凝縮した礼拝物の竿ができ、さらに宝珠・笠・火袋・中台も集約されて切支丹燈籠が完成された。切支丹燈籠は岩石の異なったものを使用したことに、深い意図がある。また、この燈籠の図は絶対に書かないことを掟とした。万一にも図が奉行の手に渡れば、信徒は一網打尽に刑を受けることを心得ていた。燈籠は信徒の胸から胸に伝えることを確約した。全国の燈籠を調べた結果、信仰の裏付けのある切支丹燈籠で、同一寸法の物は1基もなく、さらに型・文様・尊像も同一寸法の物がなく、信徒が確約を守った何よりの証拠でもある。 旧教徒のの信徒達は月例行事として、毎月一回集団礼拝を行わなくてはならなかった。当時、数人が毎月集まることは人目につきやすく、どのように集まるかが大きな悩みであった。茶人、織部を中心に密会した人々によって作られた燈籠を、まず織部が茶庭に建て、密かに茶会と称し茶室に信者を集め、竿に託した礼拝物に祈りを捧げていたのだろう。織部が建てた燈籠を眺めた茶人・文化人達は、燈籠の素朴にして野趣に富んだ姿に、目をうばわれ、当時の芸術的大家の織部が建てた燈籠に、それらの人々は侘び・寂の幽玄さを見いだし、仮託礼拝物とは知らず、その姿に心をさらわれた人々は模倣し、茶庭・庭園の点景物として愛玩した。それらの人々は織部燈籠と呼び、江戸末期までの呼び名となった。そのことは、潜伏切支丹にとっては、この上ないよき隠れ蓑となり、礼拝用の切支丹燈籠を後には次々に型を変え作っていった。
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